「日経リスクインサイト」寄稿「見えない知財の見えないリスク」③

2025年10月10日

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※本記事は「日経リスクインサイト」掲載時の内容を転載したものです。執筆者は掲載当時㈱クオンツ・コンサルティングに所属していましたが、現在はMolton㈱にも在籍しています。

2025年7月末より、㈱クオンツ・コンサルティングは日本経済新聞社が企業・法人向けに定期配信するニュースレターサービス「日経リスクインサイト」に寄稿を開始しました。その特集テーマは「見えない知財の見えないリスク」で、全4回の寄稿を予定しています。今回紹介するのは、その③「羅針盤なき意思決定の危うさと「IPランドスケープ」活用のススメ」です。本稿は大手化学メーカー、スタートアップ企業で豊富な実務経験をもつ知的財産アナリストの原田雅子が担当しています。是非、記事をお読みください。なお記事①は9月17日に配信済みの記事①を、記事②は9月25日に配信済みの記事②を、記事④は11月28日に配信済みの記事④を、それぞれご覧ください。

もし受領されていない方は再配信しますので、consulting@molton.incまでご連絡ください。

※Molton㈱は、日経リスクインサイトに寄稿した記事を、その体裁のままで当社が発信するニュースレターに転載することを日本経済新聞社様より許諾して頂いております。

【連載】見えない知財の見えないリスク

③羅針盤なき意思決定の危うさと「IPランドスケープ」活用のススメ

㈱クオンツ・コンサルティング シニア知財アナリスト 原田雅子

企業経営で、意思決定の質の高さの重要性が増している。人工知能(AI)の急速な発展、脱炭素、地政学リスクなどの要素が複雑に絡み合うグローバル市場では、過去の延長線上の判断が通用しなくなっているからだ。質の高い意思決定を生み出すための有力な武器となるのが「IPランドスケープ」だ。知財・無形資産情報と経営・事業情報を組み合わせて現状分析し、変化の兆しを読み解くことで経営判断に活用する手法である。逆に、このアプローチを軽視すると判断を誤るリスクを高めかねない。

意思決定の「羅針盤」

残念ながら現在はまだ、意思決定のプロセスにIPランドスケープを組み込んでいる日本企業は多くない。つまり、知財・無形資産情報を意思決定に反映する仕組みが広がっていないということだ。羅針盤を持たないまま経営をしているような、危うい状況にもみえる。

そうした状況を打破しIPランドスケープを活用するためには、まず「IPランドスケープとは何か」を改めて理解する必要がある。例えば、経済産業省は、IPランドスケープを「経営・事業戦略の立案に際し、経営・事業情報を取り込んだ分析を実施し、その分析結果を経営者・事業責任者と共有する手法」と定義している。知財の専門家の現場では、この定義はさらに進化した形で受け止められており、「知財・無形資産情報と経営・事業情報を組み合わせて分析し、価値創造ストーリーを描くための意思決定に役立てる手法」という理解が広がっている。

IPランドスケープの具体的な活用例を挙げると以下のようなものになる。①知財情報をR&Dのみならず、M&A、事業投資判断に活用する②市場、規制や技術動向による競合分析結果を踏まえた戦略を策定する③組織内外の知財・無形資産を融合してイノベーションを活性化させる④リスクシナリオを策定する――などである。

欧米の先進企業は、こうしたIPランドスケープを経営に組み込んでいる。一方で、日本には依然として知財部門と経営の間に距離がある企業も多く、経営に知財情報が十分に活かされていないのが現実だ。

問題は「情報不足」ではなく「情報の使い方」の欠如

日本の大手メーカーの大半には、特許や商標の出願や管理を担う知的財産部(知財部)がある。知財部の幹部や担当者は、IPランドスケープという言葉を知っている。様々なグラフやマップなどを作り、新たな特許を取得したり研究開発の方向性を探ったりすることに役立てていることもある。しかし実は、これだけではIPランドスケープを生かしているとはいえない。

重要な問題なのは、社内の単純な情報不足ではなく、社内の情報を意思決定に結びつける仕組みや視点の欠如だ。社内の一部でIPランドスケープへの取り組みが進んでいても、その情報を取締役会や経営会議など経営の意思決定につなげるプロセスが構築されていなければ「宝の持ち腐れ」になってしまう。

IPランドスケープを怠ると、なぜ意思決定の質が低下してしまうのか。その理由はまず、「競争優位を失う」ことになるからだ。

AI時代においては、競争優位の源泉が「情報の非対称性」から「情報の活用力」に変化したといえる。生成AIの普及によって各社が持つ情報の質や量の格差が小さくなり、むしろ同じような情報を持っていても「うまく使える企業」と「使えない企業」とで大きな違いが生まれるという状況になった。もし情報をうまく使えなければ、技術投資やM&A、標準化対応など、あらゆる重要な経営判断において後手に回り、利益率の低下や市場シェアの喪失を招きかねない。

意思決定の質の低下をもたらす次の理由として、「守りの意思決定に陥ってしまう」ということも挙げられる。

グローバル競争、脱炭素、AI規制、地政学的リスクなど、企業を取り巻く不確実性はかつてなく高まっている。そんな中、財務指標や市場シェアのみを基準にしたり、過去の成功モデルに依存したりするだけでは、「守り」の意思決定に終始する可能性が高い。自社が持つ知財・無形資産を戦略的に活用することができず、グローバルな大競争時代において生き残ることが難しくなってしまう。

一方でIPランドスケープを活用し、知財・無形資産情報を経営戦略に組み込む企業は、世の中の変化に柔軟に対応することができる。規格争いや特許網を味方につける「攻め」の意思決定につなげられる、ともいえる。この差は競争力格差として顕在化する。

IPランドスケープを怠った場合の5つのリスク

IPランドスケープを活用しないことで生じ得るリスクを具体的にみていく。そのリスクは大きく5つ挙げられる。

1.投資の方向性を誤るリスク

研究開発投資は年々高騰しており、1テーマで数十億円を要することも珍しくない。しかし、競合他社の特許網や標準化の動き、将来の規制方向を把握しないまま投資すれば、「特許の壁」に直面する可能性が高い。たとえば、圧倒的な出願数を誇る米IBMが電子商取引技術関連の特許侵害を理由に、楽天やGrouponを相手に訴訟を起こし、楽天は和解金額を公表していないが、Grouponとは5,700万ドルで和解している。更に、知財の価値を軽視し投資を怠ると、市場シェアを奪われる結果を導くことがある。実際に、大手製薬メーカーでは、主力薬の特許切れ対策を怠り、ジェネリック医薬品の参入によって巨額の損失を被った。

2.提携・M&Aでの投資評価リスク

企業買収や提携において、知財ポートフォリオは重要な評価軸である。IPランドスケープを用いずに意思決定を行うと、本命技術が他社の特許に囲まれていた、または取得した知財の市場価値が過大評価されていたというリスクが発生し兼ねない。過去には、米国プラットフォーマーが手掛けたM&A案件でさえ知財評価の甘さで、買収したはずの特許だけでは事業が実施できず、更に第三者からのライセンスが必要となった事例も存在する。

3.標準化・規制対応の遅延リスク

AI、通信、脱炭素といった分野では、国際標準化や政府規制の動向が事業成否を左右する。IPランドスケープを活用すれば、どの企業が標準必須特許(SEP)を握っているのか、どの技術が次期規制に適合するのかが見える。これを怠れば、製品投入後に規格外であることが判明するという、「開発のやり直し」リスクに直面する。このような中、変化に適応することができた台湾や韓国の半導体メーカーは、米規制を織り込み特許ポートフォリオによる競争力を維持することで、供給網を強化することに成功している。

4.訴訟・紛争リスク

競合の知財ポジションを把握せずに新規事業を進めることは、訴訟・紛争リスクを高める。特に米国や中国では、特許訴訟が市場参入戦略の一部として利用されるケースが多い。事業立ち上げ直後に数十億円規模の訴訟を抱えることは、スタートアップにとっては致命傷になりかねない。

5.投資家・市場からの評価が低下するリスク

ESG投資や統合報告書の普及により、企業は知財・無形資産の活用方針を開示することが求められている。IPランドスケープを活用していない企業は、「知財・無形資産戦略が不十分」と見なされ、資本市場での評価を落とすリスクがある。逆に、知財・無形資産戦略を成長シナリオに組み込み提示できる企業は、投資家からの高評価を得やすい。

IPランドスケープを武器として使いこなす企業は、見えないリスクを先読みし、迅速な意思決定を実現し行動を起こしている。経営層が持つべき問いは明確だ。「自社は、知財・無形資産をコストと見るのか、それとも未来を切り拓く羅針盤と捉えるのか」である。未来の競争条件を決めるのは、質の高い意思決定を、どれだけ迅速に下せるかだ。経営・事業リスクを先読みし、知財・無形資産を単なる防衛資産から戦略的な成長ドライバーに活用する。今、企業が問われるのは、「なぜ、変化の兆しに対して柔軟に対応ができなかったのか」である。「過去の延長線」では、持続可能な未来を切り開けない。

原田雅子

原田雅子(はらだ・まさこ)

Molton㈱ シニア知財アナリスト

大手化学メーカー、スタートアップ企業で豊富な実務経験をもつ知的財産アナリスト。IPランドスケープを活用した知財戦略の立案を支援している。

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