「日経リスクインサイト」寄稿「見えない知財の見えないリスク」②

2025年9月25日

SHARE

※本記事は「日経リスクインサイト」掲載時の内容を転載したものです。執筆者は掲載当時㈱クオンツ・コンサルティングに所属していましたが、現在はMolton㈱にも在籍しています。

2025年7月末より、㈱クオンツ・コンサルティングは日本経済新聞社が企業・法人向けに定期配信するニュースレターサービス「日経リスクインサイト」に寄稿を開始しました。その特集テーマは「見えない知財の見えないリスク」で、全4回の寄稿を予定しています。今回紹介するのは、その②「日本企業が陥りがちな5つの落とし穴と脱却への道筋」です。本稿は弁護士で㈱クオンツ・コンサルティングの取締役を務める前田絵理(現Molton株式会社取締役)が担当しています。是非、記事をお読みください。なお記事①は9月17日に配信済みの記事①をご覧ください。もし受領されていない方は再配信しますので、consulting@molton.incまでご連絡ください。

※Molton㈱は、日経リスクインサイトに寄稿した記事を、その体裁のままで当社が発信するニュースレターに転載することを日本経済新聞社様より許諾して頂いております。

【連載】見えない知財の見えないリスク

②日本企業が陥りがちな5つの落とし穴と脱却への道筋

㈱クオンツ・コンサルティング パートナー/弁護士 前田絵理

"攻め"がなければ競争力は築けない

企業の価値創造の源泉が大きく変化している。かつては土地や設備といった有形資産が企業価値の中心だったが、今やノウハウやブランド、人的資本、データなどの「見えない資産=知財・無形資産」に置き換わりつつある。米OceanTomo社の分析によると、S&P500企業の企業価値のうち無形資産の割合は、2020年時点で実に約90%に達している。

一方、日本企業の多くはいまだに有形資産中心の経営体質から抜け出せていない。企業価値に占める無形資産の割合は約30%にとどまるとされる。このギャップが意味するのは、単なる会計上の違いではない。競争力の源泉を十分に可視化し活用し、投資家や市場と対話する姿勢が弱いという構造的な課題だ。

この差を生み出しているのが「知財・無形資産経営」である。とりわけ"守り"から"攻め"へのパラダイム転換が重要になる。

これまで日本企業は、知的財産「権」の取得や訴訟リスクへの備えといった"守り"の「防御的アプローチ」に長けてきた。しかし知財・無形資産を事業成長や収益拡大、競争優位の獲得に結びつける"攻め"の「戦略的活用」においては、世界の先進企業に大きく後れを取っている。昨今のプラットフォームをはじめとしたエコシステムを形成する共創社会では、"攻め"と"守り"の戦略をハイブリッドで駆使することが必要になる。

もしこのまま"攻め"の知財・無形資産経営を怠り続ければ、企業はどのようなリスクを抱えることになるのか。以下、企業価値を毀損しかねない5つの重大リスクを整理する。

怠慢な知財・無形資産経営による5つの重大リスク

リスク① 成長機会の喪失

知財や無形資産を起点としたビジネスモデルの変革や海外展開ができず、新たな市場開拓の機会を逃してしまう。技術開発には成功しても、それを収益に結びつける事業化のフェーズでつまづく例は後を絶たない。いわば宝の持ち腐れ状態だ。

パソコンでは大きく優位に立っていたMicrosoftでさえ、パソコン向けのWindowsの開発に集中しすぎたことでモバイル事業への参入が出遅れ、AppleのiOSやGoogleのAndroidなどのモバイルOS競争に敗れた。モバイルメーカのNokiaを買収するもその差は埋められずモバイル事業の撤退を余儀なくされたが、2023年にはWindows365の強みを生かしてMotorolaと提携し、PCに早変わりするThinkPhoneで再起を図っている。果たして巻き返しはなるだろうか。

リスク② 収益構造の硬直化

知財・無形資産のマネタイズ手段を見出せなければ、収益構造は単一的なものにとどまり、企業の持続性が危ぶまれる。たとえば、自社の知財をライセンスアウトする、ノウハウや顧客基盤を活かしてサブスクリプション型ビジネスに展開するといった動きが取れない企業は、長期的には競争から取り残される。

事実、IT業界を牽引する企業群がGAFAからMATANA(Microsoft、Amazon、Tesla、Alphabet、NVIDIA、Apple)、中国のBATH(Baidu、Alibaba、Tencent、HUAWEI)、生成AI時代のAI5(NVIDIA、Microsoft、AMD、TSMC、Broadcom)へと移り変わる中、多くの日本企業はいまだハードウェア中心だ。IT技術に後れを取ったまま、IT人材不足も伴って、海外勢に追いつけずにいる。

リスク③ 競争優位の喪失

参入障壁や差別化戦略を支える知財を十分に活用できなければ、模倣や代替に対する耐性が下がる。また、知財・無形資産を交渉カードとして活用できないと、契約条件や市場シェアで不利な立場に追い込まれやすい。

競合と自社の知財戦略を比較することで、競合の次の打ち手を先読みして対策を打つことが重要になる。

現に、リチウムイオン二次電池業界では日本企業は知財で先行していたにも関わらず最終的には中国勢に大敗を喫した。特許切れの技術や権利化されていない公開情報を活用されたうえ、資源国である強みを生かして中国政府が強力な自国企業支援に動いたことなどが直接的な敗因だが、日本側がそうした競争相手の戦略的な動きを先読みし、官民を挙げて「次の手」を十分に打たなかったことも痛恨だったといえる。

リスク④ M&A・提携交渉での不利

知財・無形資産を企業価値として正確にわかりやすく示し、説明できなければ、M&Aやアライアンスにおいて企業価値を過小に評価されることにもつながる。自社の技術やブランドが持っている本来の価値を正当に主張できず、他社に対する十分な交渉力を発揮できないまま不利な条件での提携を余儀なくされることも考えられる。また知財・無形資産の観点からの目利き力がないと、M&Aや提携においてシナジー効果を最大限に活かすこともままならない。

優れた目利き力を成長につなげた例に、台湾の鴻海精密工業が挙げられる。鴻海は2016年にシャープを買収した後、シャープを介して2018年に東芝のパソコン事業を、2020年にはNECから屋外広告向けのディスプレー事業を手に入れた。いずれも構造改革に踏み切らざるを得なくなった日本企業のハード事業を割安で買い取り、その後の収益拡大につなげたとの評価がある。

逆にいえば、日本企業は知財・無形資産を含めた自らの価値を発揮できず、M&A交渉でも不利な立場に立たされたといえる。

リスク⑤ 人材流出と組織の士気低下

知財・無形資産を活かした創造的な業務や評価・報酬制度などが存在しなければ、従業員の挑戦意欲は削がれてしまう。特に研究開発は成果が出るまで長期にわたることがあり、収益化された時には相当の対価を発明した従業員などに還元することが重要だ。

青色発光ダイオードの中村修二氏の200億円判決をはじめとし、がん免疫治療薬「オプジーボ」を巡る本庶佑氏の訴訟では280億円で和解が成立した。知財・無形資産には相応のインセンティブを働かせることが必要である。特に優秀な人材は、より成長機会のある場を求めて流出していく。これは採用難とも相まって、組織全体の活力を失わせる。

これらの5つの重大なリスクの背景には、「攻めの知財・無形資産経営」が根付かない原因となる典型的な5つの"落とし穴"がある。これを乗り越えられるかが、知財・無形資産戦略を経営の武器に昇華できるか否かの分岐点となる。

日本企業が陥りがちな5つの"落とし穴"

落とし穴① 形式主義

出願件数をKPIとし、出願の"数"を増やすことが目的化してしまう例は多い。経営や事業と連動していない知財活動は、結果として休眠特許を増やすだけの自己満足に陥る。重要なのは、知財の質と、それを事業にどう結びつけるかという視点だ。

ただ、この点については、2024年版「特許行政年次報告書」において日本国における特許出願件数が減少傾向にあるものの登録率は向上しており、「量より質」への転換期に移行していることが示された。しかし、他方で、2025年版「特許行政年次報告書」では、AI関連発明の特許出願件数は2015年から2022年にかけて7.5倍と急激に増加している。今後は、VUCA時代のダイナミックな動きに合わせ、出願件数のみをKPIとするなど形式に捕らわれない策を講じる必要がある。

落とし穴② サイロ化

知財部門が技術開発部門下に配置されたり、法務部門がその所管範囲の一部として扱う場合、経営や事業との連携が難しい。経営企画・IR・営業・ファイナンスなどとの部門連携が欠如すれば、活用の幅が狭まる。また、無形資産といってもその対象は多岐にわたり、それぞれを所管している部門間の連携が難しく、無形資産の活用の幅も狭まり、そもそも自社の無形資産が何であるかの全社的な把握の妨げともなる。経営企画部門や事業部門、営業部門、さらにはファイナンス部門、IR部門など他のコーポレート部門との連携を加速させる必要がある。

落とし穴③ 属人依存

知財・無形資産の管理が特定の担当者に依存していると、異動や退職によってナレッジが失われ、戦略の継続性が損なわれる。特に中小企業では、創業者の頭の中にしか存在しないノウハウや技術が多く、事業承継時に深刻な障害となることもある。これを防ぐには、ナレッジの形式知化と社内横断的なナレッジ共有体制の整備が不可欠である。

落とし穴④ 可視化の欠如

ブランド、顧客データ、人的資本といった"非権利型"の無形資産は、財務諸表に表れないため見過ごされがちだ。しかし無形資産に関する様々なデータや情報があふれていることは事実であり、これらが企業価値の大部分を構成している以上、定性・定量の両面からの可視化と評価が不可欠だ。可視化の欠如によって、営業やイノベーションなどの機会損失、無駄に気づかないことで起こる非効率化、リスクの見逃しや誤った意思決定など失うものは多い。

落とし穴⑤ 守り一辺倒の知財戦略

防御的な知財活動(出願、訴訟リスク回避)だけでは、企業価値を創出する"攻め"の経営には繋がらない。資金調達(IPファイナンス)や新規事業の核となるような知財戦略を描くには、経営トップの意識改革と、組織全体への価値共有が不可欠だ。もちろん、経営トップと円滑なコミュニケーションを図るためには、各社のスタイルに合った知財部門の在り方についても再定義をする時が迫っている。

脱却へのロードマップ:再構築されるべき知財・無形資産経営

こうしたリスクと落とし穴を、どうしたらうまく乗り越えられるのか。そのためには、以下のような全社的なアプローチが不可欠となる。

経営層による統括とリーダーシップ

知財・無形資産を「コスト」ではなく「企業価値の源泉」として経営の中核に位置づける。経営トップ自らが知財戦略を牽引し、社内外へメッセージを発信することが肝要だ。

棚卸と活用設計

特許・商標だけでなく、人的資本・顧客基盤・ブランドなどを含む無形資産の網羅的な棚卸しと定量評価を行い、それを基にIPランドスケープなどを活用し、知財・無形資産の活用戦略を設計する。

部門間の「知の循環」強化

知財・法務部門だけでなく、経営企画、営業、IR、ファイナンスなどを横断した連携体制を構築する。属人性を排し、組織的知見として蓄積・活用できる仕組みが必要だ。

ストーリー性がある情報開示

無形資産は可視化しづらいがゆえに、その価値を「ストーリー」として伝える工夫が求められる。統合報告書や説明会を通じて、投資家・顧客・採用候補者との信頼関係を構築する。

IP人材の育成と戦略部門化

知財、経営、技術の複合的スキルを持つ「知財プロデューサー」人材の育成と、知財部門の戦略部門化によって"攻めの知財経営"を推進する。

知財・無形資産経営は未来への投資

知財・無形資産経営とは、単なるリスク管理ではない。企業が未来に向けていかなる価値を創造し、どのようにして社会と関わっていくのかを示す「経営の哲学」にほかならない。その中心にあるべきは、人財である。人財(人的資本)こそ、知財・無形資産の根幹であり、従業員一人ひとりが企業価値の担い手であるという認識を全社で共有することが重要だ。

知財・無形資産経営は、いわば「未来経営」といえる。短期利益にとらわれず、企業の持続的価値創出を見据えた長期戦略として、全社的に取り組むべき経営課題だ。リスクや落とし穴を回避し、知財・無形資産を「経営の武器」として使いこなせる企業こそが、次世代の勝ち組企業となる。知財・無形資産経営の成否は、企業の未来そのものを左右する。それは、今経営者が向き合うべき"現実"である。

前田絵理

前田絵理(まえだ・えり)

Molton㈱ 取締役/弁護士

弁護士として企業法務を専門とし、知財戦略・コンプライアンス・ガバナンスの分野で幅広い経験を持つ。企業の知財・無形資産経営の推進を支援している。

日経リスクインサイトの購読をご希望の方は下記URLよりお申込みください。

https://rc.nikkei.com/risk-insight/about/

お問い合わせ先

consulting@molton.inc