「日経リスクインサイト」に寄稿開始

2025年9月17日

SHARE

※本記事は「日経リスクインサイト」掲載時の内容を転載したものです。執筆者は掲載当時㈱クオンツ・コンサルティングに所属していましたが、現在はMolton㈱にも在籍しています。

2025年7月末より、日本経済新聞社が企業・法人向けに定期配信するニュースレターサービス「日経リスクインサイト」に寄稿を開始しました。今回は4回連載予定の特集寄稿で、テーマは 「見えない知財の見えないリスク」 です。

企業が知的財産や無形資産を活かして企業価値を高めようという動きが活発になっています。一方で経営者やビジネスパーソンは知財・無形資産の価値や、知財・無形資産を軽んじたことでどんなリスクを負ってしまうかについて十分に知らないのが実情です。今回の特集寄稿では、㈱クオンツ・コンサルティングに所属する弁護士、知財の専門家、知財の情報開示に詳しいアナリスト、知財問題に詳しいジャーナリストが様々な角度から知財・無形資産にまつわるリスクやチャンスを幅広く紹介していきます。是非、特集をお読みください。

※Molton㈱は、日経リスクインサイトに寄稿した記事を、その体裁のままで当社が発信するニュースレターに転載することを日本経済新聞社様より許諾して頂いております。

【連載】見えない知財の見えないリスク

①活用の巧拙が分けた会社の運命

㈱クオンツ・コンサルティング マネージャー 渋谷高弘

知的財産や無形資産という言葉が、企業の経営層や幹部の間で語られるようになってきた。2021年6月に改訂されたコーポレートガバナンス・コードにより、上場企業の取締役会は知財に関する投資や戦略を監督し、外部に分かりやすく開示することが求められたことも大きい。

とはいえ企業の対応には、大きな差が出ている。うまく対応できない最大の理由は、多くの企業人が「知財・無形資産の本当の意義や価値」、逆に言えば「知財・無形資産を知らないリスク」を十分に理解していないからだ。知財・無形資産の価値やリスクを知らなければ、特許侵害や著作権侵害といった狭い範囲の法的リスクのみならず、①事業機会の喪失②差別化の失敗③M&Aの失敗――など様々なビジネス上のリスクに直面しかねない。

㈱クオンツ・コンサルティングで企業向けに知財・無形資産の活用推進などを手掛ける「IP, Legal & Risk, Governanceチーム」のメンバーが、今回から毎月1回の連載記事を担当し、知財・無形資産にからむリスクや企業が注意を払うべきポイントを解説する。初回は元日本経済新聞編集委員で、㈱クオンツ・コンサルティングのマネージャー、渋谷高弘が、現代における知財・無形資産の定義を示しつつ、その利活用によって企業の競争力に大きな差が生じることを事例を通じて紹介する。

「知財・無形資産とは何ですか?」と聞かれたとき、何をイメージするだろうか。きっと多くの人が「特許のことだろう」「ブランドや著作権も含むはずだ」などと答えるに違いない。「自社の製品に関する特許や商標を取得しておけば、その利用を独占できたり他社からライセンス料を得たりして、ビジネス面で優位に立てる」とコメントする"知財通"の人もいるかもしれない。その通りである。

ただ、このような知財・無形資産に関する理解はいわば「20世紀の常識」に過ぎない。であり、下手をすると19世紀レベルの理解と言われてしまいかねない。そのくらい、現代の知財・無形資産の世界は進化してしまった。現代は自社や他社の知財の状況を客観的に分析するIP(知財)ランドスケープを駆使し、自社の成長やM&Aを設計する材料に利用することが常識となりつつある。

知財・無形資産に対する理解と戦略で後れを取り、膨大な被害を受けたのは2000年代から2010年代にかけての日本の電機・半導体かもしれない。2003年4月に業績下方修正を公表したソニー(現ソニーグループ)は「ソニー・ショック」に見舞われて株価が急落し、2005年秋には国内外で1万人の人員削減の発表に追い込まれた。2009年には日立製作所が製造業で過去最大の7500億円の最終赤字を発表。2012年には半導体大手のエルピーダメモリーが経営破綻した。2013年にはパナソニック(現パナソニックホールディングス)が2期連続で7500億円超の最終赤字を記録。2016年には液晶事業への過大投資で大失速したシャープが、日本の総合電機メーカーとして初めて、台湾の鴻海精密工業という外資の軍門に降ってしまったのだった。

知財問題に詳しい東京科学大学の渡部俊也教授は、「日本の大手電機・半導体がそろって危機に陥ったのは、個別の問題ではなく、知財・無形資産を軸とした電機・半導体のビジネスモデルが米国とアジアの企業によって変えられてしまったことが大きい」と指摘する。

もっと言うとするならば、当時の日本企業が常識だと思っていた「守りの知財戦略(大量の特許を取得して独占し、他社を市場から排除するビジネス戦略)」が通用しなくなり、米国企業がアジア企業(特に台湾企業と中国企業)をパートナーとして巻き込み新たに打ち立てた「攻めの知財戦略(自社の知財を他社に利用させて魅力的な製品・サービスを作らせ、自社はその製品・サービスの核心的な知財を独占して高い利益を獲得するビジネス戦略)」によって、完膚なきまでに叩きのめされてしまったのが、実態だった。

その証拠に、2000年代から2010年代にかけて「攻めの知財戦略」を編み出し、採用したとされるインテル、マイクロソフト、アップル、アマゾン・ドット・コムなどの米国企業は韓国サムスン電子や台湾の鴻海精密工業、台湾積体電路製造(TSMC)などのアジア企業をパートナーとして目覚ましい業績を上げた。当時、米国企業が保有していた特許をはじめとする知財権の量は決して日本企業より多くはなかった。しかし自らの技術と知財を冷静に分析し、パートナーを巻き込む知財と独占のための知財とを意識して使い分け、さらにパートナー企業が勝手に知財を利用できないように契約(無形資産)で縛り上げるという知財・無形資産の「オープン&クローズ戦略」を作り上げたことが大きな効果を発揮した。

米調査会社オーシャン・トモの「無形資産の市場価値調査」によると 米主要上場企業の時価総額の9割は「無形資産」によって占められているのに対し、日本の主要上場企業の時価総額に占める「無形資産」はわずか3割に過ぎないとされている。

この調査結果から読み取れるのは、日本企業が米国企業に比べて知財・無形資産をうまく企業価値に盛り込むことができていないという現実だ。ただし例外はある。代表格といえるのが、味の素とアシックスだ。

味の素 無形資産活用と丁寧な開示

味の素は、アミノ酸の一種であるグルタミン酸を使ったうま味調味料「味の素」の製品化を果たした研究開発型企業だ。近年はアミノ酸のはたらきにこだわった研究や実用化のプロセスから得られる多様な素材・機能・技術・サービスの総称を独自に「アミノサイエンス」と呼ぶ。日本では「アミノサイエンス」の商標権も取得し、2大事業である食品とバイオ&ファインケミカルを支える技術資産としての価値を表現している。

味の素は日本企業としては無形資産を幅広くとらえ、人財資産、技術資産、顧客資産、組織資産の4つに分類。それぞれを重点的に強化するストーリーを統合報告書「ASVレポート」で、機関投資家や証券アナリスト向けに詳しく説明している。

同社が特徴的なのは、無形資産をはじめとする非財務情報に関する説明を地道で丁寧に進めている点だ。2015年には、当時の日本企業としては珍しかった機関投資家向けのESG(環境・社会・ガバナンス)説明会を始めた。さらに2024年版の統合報告書では、人財資産に対する投資額を「2030年までに人件費以外に1000億円以上」としたうえで、従業員の実労働時間当たりの売上高や連結事業利益の実績も明示した。

技術資産についても、牛が生育過程で大気に放出する温暖効果ガス(げっぷ)を減らすため、牛の飼料に混ぜ合わせる同社の製剤を2030年までに100万頭の牛に与えることで計100万トンの温暖効果ガスの削減を見込むなど、具体的な数字やストーリーを示し、自社の無形資産への投資が企業価値や社会価値につながることを分かりやすく説明している。

こうした取り組みの効果もあり、同社に対する市場の評価は高まっている。2019年1月に900円台半ばを推移していた同社の株価は、2025年7月初めの段階で3900円前後となっている。PBRも5倍超となり、19年1月(1・6倍)から3倍以上に跳ね上がった。

「社長プロジェクト」を進めるアシックス

アシックスも創業者の鬼塚喜八郎のものづくりのこだわりが社風に引き継がれ、質の高い特許の取得やアジア諸国における模倣品への対策などに力を注いできた。ただ、味の素のような無形資産に関する対外的な情報発信は、決して十分とはいえない状態が2020年以前まで続いていた。この時期、競合・米ナイキの「厚底」シューズがマラソンや長距離走の分野を席巻しており、箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)のランナーが使うシューズのアシックスのシェアが年々低下し、同社に衝撃を与えた。

当時の廣田康人社長(現会長)は2019年11月に直轄の「Cプロジェクト」を立ち上げた。Cとは「頂上」の意味で、鬼塚喜八郎の「まず頂上を攻めよ」の言葉に由来する。トップアスリートが勝てるマラソンシューズを開発するため、同社は従来の開発部門だけでなく、研究、マーケティング、販売、知的財産など関連部署から精鋭を集めた。全社横断の「知財戦略委員会」も立ち上げ、社長をはじめとする全経営幹部が過去や未来の知財戦略をレビューしている。経営レベルで知財戦略を監督するようになり、開示への意識も高まった。ここ数年、統合報告書などで知財戦略を積極的に発信しており、取得の難易度の高い「立体商標」を含めた国内外での知財権の保護・活用の成果を紹介している。

このように全社ぐるみで知財・無形資産の活用に取り組んだ結果、アシックスの株価は2019年はじめに300円前後と低迷していたが年末には450円に上昇。2025年7月半ばの段階では3600円前後と最高値に近い水準で推移している。PBRも2019年は1・7倍程度であったものが、現在では10倍を超える。

一流の技術力を持っていた東芝の「失策」

一方、歴史的に名高い技術力を誇りながら、知財・無形資産に関して「失策」を繰り返したのが東芝だ。1890年に日本で最初の一般家庭向け白熱電球の生産を始めて以来、真空管、半導体、白物家電から原子力発電所までを手掛ける日本を代表する総合電機メーカーだった。一方で知財・無形資産にかかわる話題では、後手に回り続けたという印象が消えない。その代表が2018年5月まで同社の主力製品のひとつだったフラッシュメモリーを巡る紛争だ。

東芝でフラッシュメモリーを発明した著名技術者で、東北大学教授に転じていた舛岡富士雄氏が2004年3月、元勤務先の東芝を訴えた。フラッシュメモリーの発明の対価として10億円を要求したのだ。舛岡氏は東芝で1970年代後半〜1980年代にフラッシュメモリーの開発にのめり込み、1980年に特許数10件を出願した。当時、上司に「今、事業化すれば世界のトップに立てる」と熱心に事業化を働きかけたが、認められなかった。「その時の無念さが後に会社を訴える素地になった」と話している。東芝は舛岡氏の言い分を認めず、国内外メディアを巻き込んだ騒動の後、8700万円を払って和解した。

後にフラッシュメモリー事業に乗り出し、競合に追随した東芝が見舞われたのが技術流出事件だった。東芝と当時の合弁相手だった米サンディスクが運営していた三重県の四日市工場に勤務していたサンディスク日本法人の技術者が、東芝の技術情報を盗み出し、ライバル半導体メーカーである韓国SKハイニックスに引き渡していたことが2014年に明らかになった。警視庁が技術者を日本で逮捕し、東芝はSKハイニックスを営業秘密の不正取得で提訴した。約330億円の和解金を得たものの、技術流出が発覚するまでの5〜6年間の事業面の損失は、その金額をはるかに上回るとみられる。

東芝は2006年に6400億円という巨費を投じて原子力発電プラント大手の米ウェスティングハウス(WH)を買収した。しかし2010年代にWHは数1000億円規模の損失を出して経営破綻。2015年に発覚した不正会計問題と相まって、東芝の経営は大混乱した。東芝の経営不振は長引き、フラッシュメモリー事業やメディカル事業という大切な資産を切り売りした後に、最終的には2023年12月に上場廃止となった。

東芝に関しては、WH買収時のデューデリジェンス(投資判断のための事前調査)の甘さが批判の対象になった。筆者としては、当時の東芝経営陣の過剰な自信だけでなく、知財・無形資産の重要性についての認識の足りなさも、こうした甘い判断につながったのではないかと考えている。

これまでみてきたように、知財・無形資産が持つ価値とリスクを正しく認識することは、企業の栄枯盛衰に直結するほどの重大事といえる。製造業を中心とした知的財産部門が取り組めば済むというような軽い問題ではなく、業種を問わず経営者と企業幹部が企業の生存の問題として向き合うべきテーマだということを、改めて強調しておきたい。

渋谷高弘

渋谷高弘(しぶや・たかひろ)

Molton㈱ マネージャー

日本経済新聞の記者・編集委員として「青色発光ダイオード特許対価訴訟」など知財や企業法務関連の取材を25年以上にわたって手掛けた。2025年に㈱クオンツ・コンサルティングに移籍後、同年中にMolton㈱に参画し、企業の知財・無形資産活用の支援に従事する。

日経リスクインサイトの購読をご希望の方は下記URLよりお申込みください。

https://rc.nikkei.com/risk-insight/about/

お問い合わせ先

consulting@molton.inc